悪人は語ってはならないのか – 神戸連続児童殺傷事件 元少年A『絶歌』(太田出版)

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「酒鬼薔薇聖斗」の名前で、児童ふたりを殺害、警察やマスコミへ手紙を送る行為など、世間を震撼させた神戸連続児童殺傷事件。当時14歳だった犯人は現在32歳。事件を振り返った手記を発売し、大きな批判が起きています。

批判の内容としては

  • 芸能人の本みたいな自己陶酔が感じられる
  • 今も被害者は苦しんでるのに
  • 本当に更生できてるのか疑問
  • 印税が被害者側に支払われることになっているのか?

といったものの様子。参考:元「少年A」が「神戸連続殺傷事件」手記を出版 「印税は被害者側に支払うのか」と論議に(J-CASTニュース)

私の考え

たしかに、「なんでもありだな」と思うところはありつつ、かといって罪を犯した人間が、その罪を振り返る手記を発売することを全面的に否定はしたくありません。なぜか?その事件を起こした心理と真理をもっともよく知っているのが犯人だからです。

今回の本は遺族の意向を無視して出版されたそうなので、そこは批判されるべきでしょうけど、「芸能人の本みたいな自己陶酔が感じられる」とか「本当に更生できてるのか疑問」とかは、知らんがな、ほっとけよ、という感じです。

また、こういった本ですぐに言われる「印税はどこに?」というのも、それも外野がどーのこーのいう話ではないと思います。

悪人を沈黙させるだけでよいのか

これは私の感覚でしかありませんが、日本の社会はオウム事件以降、罪を犯した人への風当たりが強烈に厳しくなったと思います。いや、風当たりというよりも、思考停止。

「彼らは悪であり、私たちとは違う。悪人に人権はなく、排除すればよい」

集団リンチとでも言えるでしょうか。たとえば、この神戸連続児童殺傷事件の犯人が14歳の少年と分かったとき、多少は世間に同情や理解しようとする姿勢、少年はなぜそんなことをやったのだろう?と歩み寄る雰囲気がありました(厳密にはこの事件は97年なのでオウム事件以降ではある)。

しかし、最近起きた多摩川での少年刺殺事件や、女子大生が老女を撲殺した事件など、あっという間に犯人を「吊し上げて」思考を停止させているように感じます。

善か悪か、白か黒か、右か左か、原発推進か反原発か、アベかアベじゃないか。世界はそんなに単純な、二元論で語れるものでしょうか。自分の考えをTwitterのプロフィールへ「タグ付け」できるほど、単純なのでしょうか。

アーティストがなにか犯罪を起こすと、いきなり作品が店頭から消えるのも、本当に不思議です。行為に罪はあっても、作品に罪はないはずです。

※その点、いまだに小向美奈子を全面PUSHし続けるムーディーズはさすがだ。

悪人を排除するだけでは何も学べません。忌み嫌い、排除して、自分は正しいとする。この、圧倒的な無関心。世界を滅ぼすのは、圧倒的な無関心なように思えるのです。

最後にもっぺん繰り返し。「遺族の意向を無視して出版した」部分は批判されるべき(太田出版)。しかし、犯人がなにかを語ることについては、批判すべきではない。その人格を否定すべきではない。

私はそう思います。